女性用風俗AiryLove
セラピストの司(つかさ)です。
突然ですが
「なんか最近飽きてきちゃったなぁ」
そう感じたことはないでしょうか。
同じセラピストと過ごす中で、安心感に比例してそうした感情がどこかに芽生えた時、どのように感じるでしょうか。
以前まで感じていたポジティブな感情への喪失感や飽きへの嫌悪感など様々な感情が渦巻き、複雑な感情で日々を過ごす事は健全とは言えないように感じます。
飽きさせたしまったセラピストに原因があったのか、飽きてしまった自分自身に問題があったのか。飽きさせてしまったセラピスト側に要因があることは否めませんが、セラピスト側の努力だけで「飽き」から解放されるのでしょうか。
誰しも、飽きたくて飽きているわけではないと思います。
しかしそれでも飽きてしまうとすれば、なんらかの工夫を凝らすことで飽きてしまうことを防ぐこと、あるいは遅らせることができるのではないでしょうか。
延いては「飽き」の捉え方に変化を加えることで、新しい可能性が見えてくるのではないでしょうか。
今回はこの「飽き」についてお話できればと思います。
飽きたことで何か哀しい経験がある方、飽き性で嫌だと感じている方、飽きたくない方、飽きるとはなんぞやと感じられている方、「飽き」を経験された方々が持つ、それぞれの想いを考えると「飽きる事」についてお話することが果たしてプラスとなるのか、はたまた古傷に触れることになるのか…
なんとも言えない部分もありますが、もし興味がございましたら、ご一読いただけますと幸いです。
①「飽きる」とは?
飽きると一概に言っても、それが表す感情は多種多様。
この人と過ごす時間は飽きてしまったという気持ちの裏には、つまらない、ドキドキしない、興味がなくなってしまった、なんとなく冷めた感じがするなど、様々な感情が渦巻きます。
時にはなぜそんな風に思うのかはっきとわかっていることもあれば、なぜそんな風に思うのかわからないところが、難しい所です。
しかし、一般的に「飽きた」という状態には「またこれか・・・」といった気持ちが含まれるように感じます。
当初そうは思わなかった事柄も、何度も繰り返すうちに擦り切れ、当初の受け取り方とは異なる感じ方をしてしまうものです。
例えそれがどんなに良いものであったとしても。
映画を例えに考えてみます。
違う映画を観る事、つまり変化を加えることで「映画」自体に飽きることはありまん。
しかし同じ映画を繰り返し観る事が好きな場合、お気に入りのシーンが迫る過程で「またこれか・・・」と思わないのはなぜでしょうか。
むしろ「来るぞ・・・」などと、これからどうなるのかがわかっているにも関わらず、固唾をのんで映像を楽しめます。
これは映画そのものは同じものでも、見ている側の捉え方が変化しているからです。
好みのシーンに期待を寄せる感情の起伏は一定ではないと感じます。
「やっぱりいいな」と感じるからこそ、何度見ても飽きないと感じるのではないでしょうか。
しかしその気持ちもやはり、回数を重ね、頻度が上がっていく中で感動は薄れ、次第に魅力的だと感じる気持ちのふり幅は小さくなっていくように思います。
一日のうち連続して同じ映画を観てしまえば少なからず「飽き」が来てしまう状況は容易に想像できます。
「飽き」について考えた際に抑えるべきポイントは「変化」や「頻度」そして「捉え方」なのではないでしょうか。
②どうすれば飽きないのか?
「飽き」を解消、緩和する上で重要だと思える要素について、女風に絡めて考えてみます。
1.変化を加える
端的にいえば、マンネリ化を防ぐという事です。
セラピスト側の飽きさせない努力としては、何度もお時間を共有させて頂く中で生まれる安心感の上に成り立つプレイを積極的に取り入れていくことが効果的なように思います。
初めて会った人とは・・・と感じる事でも、何度かお会いした方とであれば踏み出せるかもしれません。
変にアクロバットな事をする必要はないのかもしれませんが、安心感を育むと共に二人で新しいことにチャレンジしていけることが「飽き」に抵抗力を付与してくれるのではないでしょうか。
他にも接吻について考えてみると、様々なシチュエーションがあります。
そこに創意工夫を取り入れるだけでも感覚に変化を加えることが可能で、飽きを緩和することができるのではないでしょうか。
する側もされる側も、接吻をもっと感じていきたい所です。
視線が交わり、接吻を意識した瞬間から既に接吻は始まっています。
あるいはもっと前から。
唇と唇が触れ合う直前のなんとも言えぬ、緊張感と期待感。
首を少し傾けながら、唇に吸い込まれるように距離が縮まります。
少し触れたかと思うと離れ、何度も唇を重ねるうちに、何も考えられなくなります。
そこに至るまでの経緯が、毎回同じだという事などあり得るのでしょうか?
角度や強弱、息遣いや絶妙な間の取り方、細部まで意識すればするほど、同一の行為となり得るとは思えません。
ましてや飽きてしまう事などあるのかと感じるほどに。
同じ行為であったとしても感じ方、捉え方を意識することで飽きなくなる事は大いにあり得ると思います。
そして別れ際のフレンチキス。
二人のお決まりのルーティンでも、それは飽きるとか飽きないとそんなのは関係なくって、今日もありがとうとか、楽しかったねとか、また会いたいね、と色々な気持ちが詰まった、接吻とはまた違う意味のキス。
この人とのこんなキスも好き。
そうした素敵な記憶を大切に残しつつも、あんなキスも良かったなと感じて頂けるような、何も考えなくなれるような、そんな接吻も飽きを遠ざけてくれるのではないでしょうか。
2.頻度
どんなに好きなものでも毎日となると話は変わってくると言いますが、本当にそうでしょうか。
ここに記載するのはあくまでも自身の考えであり、必ずしもそうだと申すつもりはございません。
しかし、もし「飽き」に関して問題意識をお持ちであるならばペースを意識してみるのも良いのではないでしょうか。
とはいいつつも、会いたいものは会いたい!ですし、記憶に変化を加える事で問題を解消できる可能性がある以上は変に頻度について考える必要はないのかもしれません。
しかし、短いスパンで一緒に過ごす中で「飽き」に対して少しでも思うところがあるのであれば、何らかの工夫を凝らすことで「飽き」を緩和、解消してみようといろいろと試してみるか、会うペースをコントロールするという方法もあるかと思います。
他にも、記憶する機会が多い場合、それを凌駕する情報量があれば問題ないといった考え方もあるはずです。
セラピストがすべてを記憶できないほどの濃密な時間を提供する事で、マンネリ化に一石を投じることができれば、どれだけ頻繁にお会いしたとしても飽きる事はないのではと感じます。
例えば某テーマパーク。
一日に何時間も滞在して、年間PASSもゲットして毎月何度も行くのに飽きない。
多岐にわたる建物や食べ物、豊富なアトラクションに四季を彩る様々な催し物、テーマパーク内での思いがけない出会いとそのホスピタリティ。
飽きるほうが難しいです。
現金な言い方をしてしまうと、圧倒的な情報量が人々を飽きさせないのではないでしょうか。
しかしそれも、そうした情報を取り入れようという姿勢あってこそ。
ただ来てみた、という方と、楽しむぞ!と意気込んでいる人の間には大きな差が出るはずです。
そうした意味でも捉え方、構え方も重要な要因となるのではないでしょうか。
③最後に
「熊掌に飽きる」という言葉があります。
熊掌(ゆうしょう)とは熊の手を指します。
古来より中国では熊手は最高級の珍味とされ、天下の美味、最高の贅沢と称されるほどです。
つまり、「熊掌に飽きる」とはどんなに良いものであっても、それを楽しめないこともあるという状態を指します。
どんなに高級であっても、どんなに素晴らしいと感じた事にも飽きることはある。
ということです。
飽きる事は必ずしも悪いことではありません。
むしろ自然なことですし、飽きたという事は、心に余裕ができたという事です。別のことにエネルギーを割く余裕が生まれているのです。
新しく好きになれそうなセラピストを探してみるのもいいかもしれません。
ましてや飽きのない人生があるとすれば
飽きない事は慣れない事にも似ていて、つまりモノを覚える事ができない。
飽きや慣れが引き起こす悲しみや苦悩についての忘れることができない。
想像しただけでゾッとしますね。
飽きてしまう事を容認しつつも、飽きを回避する方法を模索しながらセラピストとして精進することで、皆様が女風ライフを楽しむ事へのお力添えが叶うならばセラピスト冥利と言えるのではないでしょうか。
「飽き」について書きながら感じたことは「飽き」はある種の「きっかけ」になる可能性のあるポジティブな要素になりえるという事です。
飽きをきっかけに新しいシチュエーションを模索する機会。
飽きをきっかけに新たな巡り合わせに直面する機会。
飽きを意識することをきっかけに、新しい扉が見つかるかもしれません。
どうすれば飽きないのかについてお書きしたものの、結果として
いいじゃあないですか、飽きたって。
という部分を含むことになりました。
「飽き」なのか「慣れ」なのか、はたまた「安心感」なのか
感じ方は人それぞれですが、そうした感情とうまく付き合い、様々な手法を凝らしながら向き合っていくことでより充実して過ごせるのではないかと思います。
こちらの記事が何らかの形で、皆様が充実して過ごす事へのお力添えとなれば幸いです。
お読み頂きありがとうございます。
AiryLove 司(つかさ)